薔薇の花びらの話

フラワーカーペットなるものがある。色とりどりの花びらをとんでもない数用意して、花びらにより巨大な絵を描くというものである。それを職場のあるオフィスビルでやっている。なにかの催事のようである。

金曜日の昼、昼食から職場に帰る途中で私はその下絵が巨大なオフィスビルの巨大なエントランスホールに置かれているのを見た。5m四方の絵が4枚も置かれている。その下絵の向こうにどうやら絵に使うらしい花も見えた。あの花をわざわざほぐして花びらにするのかしらんと思った。

金曜日の夜、夜中まで働いた私はよたよたと職場を後にし、エントランスホールに向かった。下絵にせっせと何か準備をしている人がいた。傍らには絵に使われるであろう花が置いてあった。昼には棚に積まれていたが、今は使いやすいように絵の近くに置かれていた。それは水に挿したまだ瑞々しい薔薇の花だった。何十本と薔薇の入った黒い四角いケースが何十と置かれている。絵の近くは立ち入れないようにしてあったが、花をよく見ようと覗き込んでいる女の人がいた。

一枚一枚の花びらにしてしまうより、薔薇の形のままであったほうがどんなによかろうと私は思った。白い薔薇が、赤い薔薇が、黄色い薔薇が、粉々になるためにそこに置かれていた。

月曜日の朝職場に来ると、薔薇は絵になっていた。極彩色の明るい絵だ。エントランスホールには薔薇の香りが満ちていて、それが哀しかった。


私はいつか、薔薇の花をばらばらに壊したことがある。大学生の頃、冬だったと思う。ピンク色の薔薇を1本家に飾っていた。私は枯れかけて縁が少しだけ茶色になった薔薇を花瓶から抜きとり、まじまじと見た。夜中だった。部屋の照明はしらじらとして、白いテーブルと椅子、テーブルクロスを照らした。

一体どんな衝動か覚えていないが、私はそこで薔薇を壊したのだった。花びらは美しかった。薔薇の香りがした。触るとすべすべとした。口に含むと硬くて、ちっとも快くなかった。とても悪いことをしたという気持ちになった。私は薔薇を崩す前からそんな気持ちになることを知っていた。その上で薔薇を壊そうと思った。


薔薇で絵を描くなら、わざわざ生きた薔薇の花を使う理由が欲しかった。薔薇を壊す罪悪感を感じた上で壊してほしいと思った。それなのにフラワーカーペットの薔薇は全くなんの悩みも後悔もなさそうな絵になってしまった。それが悲しかった。